心の脂肪。

星海社の柿内さんがおもしろいことを言っている。

 

柿内芳文のミリオンセラータイトルズ

「プロレスってぶっちゃけ何が楽しいの?」

 

楽しいかどうかはわからないけど、

かつてプロレスファンだった人間として、ちょっと書いてみたい。

 

 

プロレスがおもしろくなくなったと言われて久しい。

実際ぼくもそう思うし、いまでは観る気も起きない。

なぜ、おもしろくなくなったのか?

人によっていろんな解釈があるだろうが、

なにより決定的だったのは弱小団体の乱立である。

 

プロレスがゴールデンタイムで放送され、

国民的人気を誇っていた当時、日本のプロレス界は

・新日本プロレス(アントニオ猪木の団体)

・全日本プロレス(ジャイアント馬場の団体)

の2大メジャー団体が牛耳っていた。

 

議論をわかりやすくするため、ここでは

アントニオ猪木率いる新日本プロレスに話を絞ろう。

 

たとえばローリング・ストーンズのコンサートでは、

いまだに60年のヒット曲を歌わないとお客さんが満足しない。

エリック・クラプトンは毎晩のように『いとしのレイラ』を演奏し、

桑田佳祐は『いとしのエリー』を歌う。

これは興行のさだめだろう。

 

そして興行会社たるプロレス団体では、

毎晩のようにアントニオ猪木が勝たなければいけない。

シリーズ最終戦に向けての伏線として

まさかの敗北!を喫することはあっても、

基本的には「猪木が勝つ」のが興行のルールなのだ。

 

実際にアントニオ猪木が人気・実力ともに他を凌駕していた

70年代から80年代前半あたりまでは、それでよかった。

猪木が勝つ、という興行に説得力があった。

しかし、80年代後半あたりから

猪木の肉体的・精神的な衰えが目立つようになり、

それと入れ替わるように中堅レスラーの人気・実力が上昇し、

興行としての説得力に陰りが見えるようになる。

 

おそらく中堅レスラーの中には

自分がトップになればもっとおもしろい試合ができる、

もっと客を集めることができる、

新しいプロレスを体現することができる、

との自負もあっただろう。

実力的には猪木を上回りながら

いつまでも引き立て役を強いられる会社のシステムにも

不満がたまっていたのだろう。

80年代後半からの新日本プロレスは、

中堅レスラーの相次ぐ流出(独立)に悩まされるようになる。

 

では、独立したレスラーたちはどうなったか?

……やはり興行会社のジレンマに苦しむのだ。

 

自分が設立した小さな団体で興行を打っていく。

当然、スポンサー周りも必要になるし、

全国各地の興行主との飲み会・接待に忙殺されるようになる。

練習時間が奪われるのはもちろん、

睡眠時間を確保することさえままならない。

しかも新団体の設立当初は、自前の道場を持つことも難しい。

スパーリングの機会もなくなり、

ぶっつけ本番の粗い試合ばかりが続くようになる。

 

結局、独立していったレスラーたちの筋肉は衰え、

その身体はでっぷりとした脂肪に覆われていくことになるのだ。

しかも皮肉なことに、

彼らは興行会社の社長として、勝ち続けなければならない。

かつて自分が反旗を翻したアントニオ猪木がそうだったように。

 

 

さてこの話、

一般企業にも通じるところがないだろうか?

 

大きな会社に属し、エース級の働きをしながら認められない。

会社のシステム自体を変えるには至らない。

そこで独立・新会社設立を決意するも、

今度は社長業に忙殺され、

プレーヤーとしての筋力が衰え、脂肪がついていく。

会社員時代にできていた「スパーリング」の機会もなくなり、

すべての仕事が一発勝負になる。

目の前の仕事に追われ、長期的視野を持てなくなる。

 

よく言われるように、

プレーヤーとマネージャーの才覚はまったくの別物だ。

僕は優秀なプレーヤーが独立していくことは

時代の必然だと思っている。

でもその場合は、自分がプレーヤーでなくなった場合の

心の脂肪に気をつけなければならない。

あるいはいっそのこと、外部から経営者を雇うことだ。

経営なんて、職種のひとつに過ぎないのだから。

 



フリーランスの名刺。

 

これまで使っていた名刺の在庫がきれてしまい、

またデザイン的にも少し飽きていたところだったので、

ここは一発、新調することにしました。

ということで、今日のテーマは「フリーランスにとっての名刺」です。

 

 

フリーランスの名刺について考えるとき、

ぼくの頭のなかにいつも流れる曲があります。

それは、ゴダイゴの『ビューティフル・ネーム』。

79年の歌なので、ご存じない方もいるかもしれませんし、

歌詞を一部抜粋しますね。

 

 

 今日も子どもたちは 小さな手をひろげて

 光と そよ風と 友だちを呼んでる

 

 だれかがどこかで答えてる

 その子の名前を叫ぶ

 名前 それは燃える生命

 ひとつの地球にひとりずつひとつ

 

 Every child has a beautiful name

 A beautiful name, a beautiful name

 呼びかけよう名前を すばらしい名前を

 

  『ビューティフル・ネーム』

      作曲:タケカワユキヒデ 

      作詞:奈良橋陽子/伊藤アキラ

 

 

なんというオプティミズム!

この歌を聴くたびに、ぼくは「名前」の不思議さに思いを馳せ、

自分を好きになるいちばんの近道は

自分の「名前」を好きになることじゃないのか、とさえ思ってしまいます。

 

そしてフリーランスになって名刺をつくると、

けっこう自分の名前が好きになれちゃうものなんです。

デザインも紙もインクも、自分好みにカスタマイズできますからね。

名刺を入口としながら自分の名前まで好きになる感覚です。

もしかしたら、フリーランスになって

最初にもらえるご褒美は、名刺なのかもしれません。

 

会社員時代、ぼくは自分の名刺が全然好きじゃなかったし、

名刺が及ぼす効果なんか考えたこともなかったけど、

いまは自分の名刺が好きで、眺めているだけでも楽しくなります。

このへんの気持ち、

フリーランスの方にしか理解してもらえないかもしれませんね。

自分の名前が大きく書かれた印刷物って、

それだけで呪術的な自己暗示の効力があると思いますよ。

 

ですからフリーランスになる方は、ぜひ名刺には力を入れましょう。

相手に覚えてもらうためではなく、

いまの自分を好きになって、いまの自分を奮い立たせるために。

 

 

そしてもうひとつ、

ぼくは仕事ができる人の条件として

「明日の名刺」という考え方をとっています。

 

明日の名刺とはなにか?

ひと言でいえば、次の問いだと思ってください。

 

「仮に今日、会社をクビになったとして、

 明日のうちにフリーランス用の名刺をつくれるか?」

 

ここで「えーっ。急に名刺って言われても」と困り果てる人は、

きっと会社の名前で仕事をしていた人。

さらにいえば、上から言われたことをやっていただけの人。

 

会社から自立して、自分で仕事を生み出していた人なら、

すぐさま名刺をつくれるんじゃないかと思います。

ライターやデザイナーみたいに名刺にしやすい職種じゃなくても、

たとえばバリバリの営業マンだったら

明日にでも「営業コンサルタント」とかの名刺をつくれますよね。

 

名刺を考えることは、自分の強みを考えることに直結します。

フリーランスじゃない方々こそ、

一度「自分が名刺をつくるとしたら、どんな名刺になるだろう?」と

考えてみてはいかがでしょうか。

自分を知るために、案外おもしろいツールだと思いますよ。

 



アスリートの時間軸。

昨シーズンからCSに加入して、

ほぼ毎節の観戦をはじめた独プロサッカーリーグ、ブンデスリーガ。

 

 

いやー、こんなにおもしろいとは思いませんでした。

毎週3試合はキャーキャー叫びながら観戦する日々で、

このままシーズン終了したら、ぼくの日常は間違いなくひとつの色を失います。

 

そんなぼくが熱心に応援しているチームが、

日本代表、内田篤人選手の所属するシャルケ04です。

といってウッチーの大ファンというわけでもなく、

このチームで大黒柱として活躍する、

ラウール・ゴンザレス選手の大ファンなんですね。

 

 

かつてレアル・マドリーで一時代を築き、

スペインの至宝、神の子とまで呼ばれたラウール・ゴンザレス。

彼はこの6月に35歳の誕生日を迎えるベテランなのですが、

とにかくピッチ上での立ち居振る舞いから

ときおり漏れ聞こえてくるインタビューでの発言まで、すべてがカッコイイ。

ぼくにとってはほとんど尊敬・崇拝の対象で、

とても年下だとは思えません。

 

今日は、そのことについて考えたいと思います。

 

35歳といえば、サッカーの世界では大ベテランです。

しかし一方、一般社会における35歳となったらまだまだ中堅、

下手したら若手としてカウントされる年齢です。

これって、すごく重要なポイントなんだと思います。

 

犬の1年は人間の7年に相当する、なんて話がありますが、

ひょっとしたらアスリートの1年も

一般人の数年間に相当するんじゃないか、

彼らはそんな時間軸に生きてるんじゃないか、と思うのです。

 

たとえばサッカー選手の1年が一般人の3年に相当するなら、

ラウールは今年で35×3=105歳。

念のためお断りしておくと、ここでぼくが言いたいのは、

彼がフィジカル的に105歳なのだということではなく、

105歳に相当するだけの人生を歩んできたのだ、という話です。

 

そう考えれば、

彼の立ち居振る舞いに長老みたいな風格が備わるのも当然だし、

含蓄に富む発言の数々も理解できます。

現役選手であり続けるかぎり、彼はファンと選手の両方から

尊敬と称賛のなかに身を置くことになるでしょう。

 

 

ただし、すべてのアスリートには引退という日が待っています。

それまでベテランとして尊敬と称賛のなかに身を置いてきたアスリートが、

一気に「ただの35歳」に引き戻される日、

過去の人生とはまったく違う時間軸に放り出される日です。

 

このとき、多くの元アスリートは

一種の「生きなおし」を強いられるわけです。

「世間」を知らない社会人一年生として、

そのキャリアを一からやりなおし、もうひとつの人生を歩みはじめる。

たとえばスポーツキャスターに転身した元アスリートの方々も、

現役時代ほどの敬意を払われることはなくなり、

むしろその初々しさや世間知らずっぷりを笑われているような、

ちょっと小馬鹿にしたような雰囲気がありますよね。

 

でも、それは明らかにもったいないし、失礼千万なこと。

彼・彼女はこれまで

一般人の105歳にも相当するほどの人生を歩んできたのだから、

35歳の社会人一年生としてではなく、

105歳の大ベテランとして生きてほしいし、なにかを語ってほしいのです。

自分が身を置いてきたスポーツを語るだけでなく、

たとえば人生を語り、政治を語り、芸術を語ってほしいのです。

 

 

 

そんなことを思っていたとき、ちょうど出会ったのが

侍ハードラーこと、陸上選手の為末大さんのツイッターでした。

 

為末選手の言葉は、とにかく響きます。

なぜなら、それが大ベテランの域に差し掛かった

現役アスリートの言葉として語られているからです。

そしてなにより、為末選手はアスリートの住む世界の風景を、

正確に言語化する力を持っている。

アスリートに流れる時間軸を、一般人の時間軸に変換する言葉を持っている。

だからぼくたちはまるで長老の言葉を聞くようにして

彼のツイートに耳を傾けるのだと思います。

 

今後為末選手が現役を退く日が来たとしても、

たぶん社会人一年生としてではなく、

長老としての言葉を聞かせてくれるのではないか。

そんなことを期待しながら、日々のツイートを拝読しています。

 

もちろん、為末選手のように自分の言葉を持つアスリートは稀です。

多くのアスリートは自らを語る言葉を持たないまま、

自らを言語に置き換える必要性を感じないまま現役を退き、

社会人一年生としての生きなおしを強要されます。

 

アスリートにかぎらず、

ある分野の専門家たちはどんな時間軸に生きているのか。

そこにはどんな言葉が溢れているのか。

もっとその人の生きる「時間軸」を意識し、取材にあたること。

そして共に言葉を掘り起こしていくこと。

それもライターとして重要な心構えなんだろうな、と思っています。



5坪の本屋さん。

2つ前のエントリで企画の立て方、みたいな話をしました。

今回はもっと本質的な話をしたいと思います。

 

売れる本・売りたい本をつくるとき、

編集者やライターはどんな要素を考えるのか?

たぶん、以下のようなところでしょう。

 

・テーマや内容

・著者の力

・市場動向

・世の中の動き

・ジャンルの市場規模

・本としての賞味期限

 

このへんを勘案しながら

「うまくいけば10万部に育つぞ」とか、

「一般受けはしなくても細く長く売れるぞ」とか、

「ひょっとしたらミリオン?」とか、

そんな無責任な夢想をするのが企画段階の楽しさなのだと思います。

 

ただ、こういう半端なマーケティング思考はもうやめて、

ちょっと別の発想ができないものでしょうか。

 

 

ぼくが最近考えるのは「5坪の本屋さん」です。

むかしから駅前にある個人商店の本屋さんでもいい。

空港に入ってる小さな本屋さんでもいい。

ちょっとオシャレな、セレクトショップぽい本屋さんでもいい。

とにかくこぢんまりとした、5坪程度の本屋さんをイメージする。

 

本屋さんが「本屋さんとしての機能」を果たすためには、

自分が好きな本を並べるだけではいけません。

文芸からノンフィクション、文庫や新書、雑誌、マンガ、

さらには辞書に参考書まで、幅広い品揃えが必要です。

 

5坪のお店となれば、各ジャンルの古典から新刊までを

相当に厳選し尽くした、代替不能な本だけが並ぶようになるでしょう。

 

 

さて、ここで考えます。

 

 

いま自分がつくろうとしている本は、

はたして「5坪の本屋さん」にも置かれるべき本なのか、と。

 

 

世の中が必要としてるとか、

時代が必要としているとか、

あのへんの読者層が必要としているとか、そんな話じゃありません。

 

むしろ「5坪の本屋さん」がその本を必要としているか、と考えるのです。

判断基準は売れる・売れないではなく、

その本を仕入れることで、書店としての価値や機能が高まるかどうか。

書店というジグソーパズルのピースを、埋めていくことができるか。

 

 

うまく言葉にするのは難しいのですが、

最近はそんなことを考えながら、次の企画を練りねりしています。



吉本隆明さん。

こういう言い方が誰にどう受け止められるかわからないけど、

敬愛していた方の訃報に接するたび、思う。

 

もし、あの方と一緒に本をつくる機会に恵まれていたらどうだっただろう、と。

そしてどうして自分は一緒に本をつくれなかったのだろう、と。

 

 

 

ずいぶん久しぶりに詩集を開いた。

そこには、こんな言葉があった。

『わたしの本はすぐに終る』と題された詩の、冒頭に。

 

 

顔もわからない読者よ

わたしの本はすぐに終る

本を出たら

まっすぐ路があるはずだ

 

 

これからぼくがつくる本の先には、

どんな路があるのだろう。

そして誰が、その路を歩いてくれるのだろう。

 

時間はない。

はやく、その路をつくりたい。