大晦日によせて。
大晦日です。
お昼にテレビをつけたら、なるほど大晦日。
年始の特番告知のついでに「トリビアの泉」が再放送されていました。
そこで本日は、
ぼくの手持ちのトリビアネタをご紹介したいと思います。
主人公はかの有名な深海魚、チョウチンアンコウです。
ヘッドライトのような、提灯のような、
まったくもってわけのわからん
捕食用のぶらぶらを誇示しているチョウチンアンコウ。
しかしこの深海魚の恐ろしさは、 顔やぶらぶらだけではありません。
ぼくらが「チョウチンアンコウ」と聞いてイメージする
上のイラストみたいな雄々しい魚、
あれって、一匹の例外もなくメスなんだそうです。
じゃあ、オスはいないのか? というと、
さすがにそんなことはなくって
メスが体長60センチくらいの巨漢なのに対し、
オスの体長はたったの4センチくらいなんだといいます。
15分の1ですよ!? メスの。
つまり、これを人間に置き換えるなら、
オスが170センチの男の子だとして、 メスはその15倍。
25メートルを超える大巨人ということになります。
さあ。
ここで、われわれ人間は考えなければなりません。
男子であれば、
身長25メートルのガリバーガールと恋に落ちたおのれの絶望を。
女子であれば自分の15分の1、
身長11センチのピクシーボーイに恋してしまったおのれの悲運を。
恋に国境はありません。
年齢だって、国籍だって、かんたんに乗り越えられる。
ましてや身長がネックになるなんて、考えられない。
それが恋というものです。
相手がどんな体躯であれ、大いに恋すればいいでしょう。
しかし、子孫繁栄に関わる問題、
すなわち子づくり問題は、どうにもなりません。
いや、それどころか手をつないで初詣に行くことすらできないのです。
そこでチョウチンアンコウは考えました。
ぶらぶらをふるふるしながら考えました。
身長差を乗り越える方法を。
スキンシップを図り、子孫を残す方法を。
解決策は、かなり大胆なものです。心して聞いてください。
まず男は「いいな」と思う女を見つけたら、
その腹めがけて思いっきり突進し、がぶり噛みつきます。
歯が食い込んで、血がにじむくらい、
狂おしいほど強烈に噛みつきます。
そして噛みついたまま、ひたすらじっとしています。
噛みついてなにをしているのか? ……待っているのです。
なにを待っているのか? ……時が流れ過ぎるのを。
時が流れてどうなるのか? ……「ひとつ」になるのです。
そう、浅学のぼくにはどういうカラクリなのかわかりませんが、
人間界の常識では通り魔としか思えない「噛みつきの儀」を経たのち、
噛みつかれて肉のえぐられたチョウチンアン子の傷口は、
チョウチンアン太郎の唇と一体化するのだそうです。
想像してください。
傷が癒え、互いの皮膚がつながり、互いの血管が通い合っていく快感を。
同じ場所で、同じ時間を過ごし、どくどくと同じ脈を感じる一体感を。
もちろん口を塞がれたアン太郎は、
自分でごはんを食べることもできなくなります。
栄養分のすべてはアン子の血液やら体液やらからいただき、
いつしかアン太郎の目や内臓は退化してしまうというから本物です。
整理しましょう。
かつては魑魅魍魎どもが暗躍する深海のなかで自由闊達に泳ぎ回り、
その益荒男ぶりを大いに発揮していたはずの猛者、アン太郎。
しかし彼は、おのれの愛を貫くためにアン子の腹部に食らいつき、
やがてその一部分となって、
つまりはただの「でっぱり」となって、生涯のすべてを彼女に捧げます。
なお、生態的な余談を加えておくと、
アン太郎の愛を全身で受けとめたアン子が産卵期を迎えたころ、
でっぱり内部で精子が産生され、めでたく受精するのだそうです。
なんたる壮絶な愛の形でしょうか。
このエピソードを聞いたとき、
ぼくは深海に生きるアン太郎が発揮する見事な自己犠牲の精神、
ひとつになろう精神、
つながろう精神、
あるいは究極的なヒモ男っぷりに感動してしまいました。
この大晦日、
ぼくはあらためて彼らに敬意を表したいと思います。
工藤公康さん。 << 前へ 次へ >> 叛史の評伝 『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』