『嫌われる勇気』刊行によせて。
本日、2013年の12月13日に、
岸見一郎先生との共著『嫌われる勇気』が発売になりました。
語りたいことはたくさんある気がするのですが、
まずは本の「あとがき」に書いた文章を引用させていただきたいと思います。
あとがき
人生には、何気なく手に取った一冊の本が、
翌朝からの景色を一変させてしまうような出逢いがあります。
1999年の冬、当時20代の〝青年〟だったわたしは、
池袋の書店で幸運にもそんな一冊と出逢うことができました。
岸見一郎先生の『アドラー心理学入門』です。
平易なことばで語られる、
どこまでも深淵で、
世間の常識を根底から覆すような思想。
トラウマを否定し、
原因論を目的論へと転換するそのコペルニクス的転回。
それまでフロイト派やユング派の言説に
どこか引っかかりを感じていたわたしは、大きな衝撃を受けました。
いったいアルフレッド・アドラーとは何者なのか。
どうして自分はこれまで彼の存在を知らなかったのか。
……わたしはアドラー関連の書籍を片っ端から買い漁り、
夢中になって読み込んでいきました。
しかし、そこである事実に気がつきます。
わたしが求めていたのは、単なる「アドラー心理学」ではなく、
岸見一郎というひとりの哲学者のフィルターを通して浮かび上がってくる、
いわば「岸見アドラー学」だったのだ、と。
ソクラテスやプラトンらのギリシア哲学をベースに語られる
岸見先生のアドラー心理学は、
アドラーが臨床心理学の範疇では括りきれない、ひとりの思想家であり、
哲学者であったことを教えてくれます。
たとえば、「人は社会的な文脈においてのみ、個人となる」
といった話はまるでヘーゲルのようであり、
客観的事実よりも主観的な解釈を重んじるあたりは
ニーチェの世界観そのものであり、
その他フッサールやハイデガーの現象学に通じる思想も
ふんだんに盛り込まれています。
しかも、それらの哲学的な洞察を起点に
「すべての悩みは、対人関係の悩みである」
「人はいまこの瞬間から変われるし、幸福になることができる」
「問題は能力ではなく、勇気なのだ」
と喝破するアドラー心理学は、
まさに悩める〝青年〟だったわたしの世界観を激変させたのです。
とはいえ、周囲にアドラー心理学を知っている人間はほとんどいません。
やがてわたしは、
「いつか岸見先生と一緒にアドラー心理学(岸見アドラー学)の
決定版といえるような本をつくりたい」
と願うようになり、
幾人もの編集者に声をかけながら、その機会を待ちわびていました。
そしてようやく
京都に住む岸見先生との面会を果たしたのが、2010年の3月。
『アドラー心理学入門』を読んでから
10年以上が過ぎたときのことでした。
このとき、岸見先生が語った
「ソクラテスの思想はプラトンによって書き残されました。
わたしはアドラーにとってのプラトンになりたいのです」
という言葉に、思わず
「では、ぼくは岸見先生のプラトンになります」
と答えたことが、本書のはじまりになります。
シンプルかつ普遍的なアドラーの思想は、
ともすれば「当たり前のこと」を語っているように映ったり、
あるいは到底実現不可能な理想論を唱えているように
受け取られかねないところがあります。
そこで本書では、
読者の方々が抱くであろう疑問を丁寧に拾い上げるべく、
哲人と青年による対話篇形式を採用することにしました。
本文中にもあったように、
アドラーの思想を自らのものとして実践していくのは、
そう容易なことではありません。
反発したくなるところ、受け入れがたい言説、
理解に苦しむ提言もあるでしょう。
しかし、10数年前のわたしがそうだったように、
アドラーの思想は人の一生を激変させてしまうだけの力を持っています。
あとはそこに踏み出す「勇気」を持ちえるかどうか、それだけです。
最後に、若輩者のわたしに対して師弟としてではなく、
ひとりの「友人」として向かい合ってくださった岸見一郎先生、
誰よりも粘り強く隣で支えてくださった編集の柿内芳文さん、
素晴らしいイラストで物語世界を再現してくださった羽賀翔一さん、
そして読者のみなさまに、心から感謝を申し上げます。
どうもありがとうございました。
古賀史健
じつは今年の1月、
偶然にも担当編集の柿内芳文さんと同じことをツイートしていました。
もちろんぼくらの頭にあったのは、本書『嫌われる勇気』です。
これは
「市場のニーズに合致している」とか
「ミリオンの要件を満たしている」とか
そんなマーケティング的発想から出てきた言葉ではなく、
「最低でも100万人に届けないといけない」という
かなり手前勝手な使命感によるツイートでした。
もちろん年頭にぶち上げた暑くるしい想いは、
いまもまったく変わっていません。
何年、何十年、たとえ100年かかろうと、
本書で語られるアルフレッド・アドラーの思想を
100万人に届けたいと思っています。
その思想について、
ぼくなりのことばで要約するとこうなるでしょう。
「世界」を変えるのは、他の誰でもない「わたし」である。
ぜひ、このことばの真意を本書のなかで確認してください。
アドラーの厳しくも希望に満ちたメッセージは、
人生を大きく変えてしまうだけの力を持っていると確信しています。
それから最後に。
たしか2010年のことだったでしょうか。
岸見先生と一緒に本をつくることが決まり、
一刻も早く形にしよう、企画を通そう、
と焦っていたぼくに対して
「焦らないほうがいい。
これは古賀さんのライフワークにするくらいのつもりで、
何年もかけてつくるべき本ですよ」
とアドバイスしてくれた佐渡島庸平さん。
本のあとがきには書けませんでしたが、
あのちいさな言葉がきっかけとなり
この100年の時代に耐えうる一冊が実現できたのだと思います。
どうもありがとうございました。
不安と自信の一考察。
一緒に仕事をしたことのある人は知ってると思うけど、
お仕事モードのときのぼくは、けっこう自信満々な受け答えをします。
「最高の原稿に仕上げます」とか、
「ぜったいおもしろくなるので楽しみにしていてください」とか、
「ぼくが書けば間違いないです」とか、
平気な顔で言ってしまいます。
それについて、小馬鹿にしてるのか感心してるのか、
「すごい自信ですね」とほめてくれる人もいるのだけど、
あったり前じゃん、と思うんです。
・不安なのは俺だけでいい。
・周りの人まで不安にさせてどーすんの?
・謙遜めいた不安をチラつかせて、いったい誰が喜ぶの?
・そんなの逃げてんだけじゃん。
・どんなに胸の中が不安でいっぱいだろうと、
手足がガタガタふるえていようと、
とりあえず相手には自信満々の返事をカマして、
大船に乗ったつもりで安心してもらい、まかせてもらう。
・そうしないと、こっちも思いきった仕事ができないでしょ?
……みたいなことを。
もちろん大口を叩いたら、
それに見合う結果を残さなきゃいけません。
プレッシャーはあります。
でも、1gのプレッシャーもない仕事なんてありえないと思うし、
どうせなら自分を鼓舞するプレッシャーのなかで生きていたい。
結果、ダメダメな仕事しかできないのであれば、
しょせんそこまでだったということ。
退場する覚悟は、いつでもできています。
というわけで、現在進めているいくつかの本。
どれも最っ高におもしろいです。
まだ一文字も書いてない本も含めて、ぜんぶが最高に。
自信満々って、そんなに悪いことじゃないと思いますよ。
編集ゼミのおしらせ
久々の更新がお知らせモノになって申し訳ございません。
11/23(金)より下北沢B&Bにて4週連続で開催される
「トップ編集者の仕事術を学ぶ4days -cakes 加藤貞顕ゼミ-」。
その第2週目(11/30)にゲストとして登壇することになりました。
第1回のゲストがコルクの佐渡島庸平さん、
ぼくを飛ばして3回目のゲストが星海社新書の柿内芳文さん、
さらに4回目のゲストが元『小悪魔ageha』総合編集長の中條寿子さん、
と、ぼく自身自腹を切って受講したい、
でも2回目ゲストの古賀史健って誰だよ、みたいな、
とんでもなくおもしろそうな企画になっています。
まあ真面目な話をすると、
これからのライターには編集の知識と技術が必須だと思っていますので、
ぜひぜひご参加ください!
支持率と愛嬌。
むかし、小泉今日子さんのヒットソングに『100%男女交際』という歌がありました。
そこにはこんな歌詞があります。
♪ オンナは度胸 オトコは愛嬌
まったくそのとおりだなあ、と思うのは政治家の支持率です。
2006年に当時の小泉総理が退任して以降、
安倍、福田、麻生、鳩山、菅、そして現在の野田さんまで、
6年間で6人の総理大臣が交代しています。
小泉政権が5年半だったわけですから、その差は歴然としています。
いったい小泉さんにあって、その後の総理になかったものはなんなのか。
どうして小泉さんだけが高支持率を保ったまま長期政権を樹立できたのか。
その答えは「愛嬌」なんじゃないかと思うわけです。
どういうことか、一人ひとり振り返っていきましょう。
まず小泉政権のあとを受け、保守のプリンスとして始動した安倍さん。
郵政選挙で獲得した圧倒的な議席数もあり、また保守系論壇からの受けもよく、
憲法改正を見据えるくらいの本格政権をめざしていたのだと思います。
ところがお人好しなのか、人を見る目がなかったのか、
政権内部にいたのはナントカ還元水とか絆創膏とかの大臣ばかりで、
メディアに突っ込まれる隙がありすぎるノーガード内閣でもありました。
退陣した直接の理由はご病気でしたが、
直前の参院選で大敗北を喫して衆参のねじれを招いていたわけで、
仮に健康であっても遠からぬ将来に総辞職に追い込まれていたでしょう。
自他ともに認める保守のプリンスだったこともあり、
さほど愛嬌のある人ではありませんでした。
続いて福田さんですが、
彼は淡々と職務をこなす実務家のようでありながら、
その発言や立ち居振る舞いから並々ならぬプライドの高さがうかがえる、
愛嬌とは程遠い人でした。
そして愛嬌の切り札的存在だった麻生さん。
この人も外務大臣時代くらいまでは、べらんめえ調でジョークを飛ばし、
しかも「自由と繁栄の弧」に要約される価値観外交を掲げるなど、
国民の期待も高かったと思うのですが、
なぜか総理になった途端、べらんめえ調がお代官口調、またはお奉行口調になり、
なんの愛嬌もない尊大な為政者になってしまいました。
メディアに嫌われバッシングの対象となった理由の一端も、
あの尊大さにあるのではないでしょうか。
ご本人は宰相としての威厳を出そうとしたのでしょうが。
そんな麻生さんを衆院選で打ち負かし、政権交代を実現した鳩山さん。
この人はもう、愛嬌とかなんとかというレベルではなかったですね。
コミュニケーションそのものが成立しなかった気がします。
続く菅さんは、明らかに力みすぎていました。
特に経済に暗いことへのコンプレックスがひどく、
いつもピリピリしていて愛嬌を振りまく余裕を失っていました。
それで現在の野田さん。
正直、ぼくはこの人がよくわかりません。
ただ、愚直な姿勢をアピールしようとする姿はあまり好きではないし、
愚直さから愛嬌は生まれにくいように思います。
愛嬌には楽観性が必要ですからね。
一方、小泉さんにはいろいろ危なっかしい面もありながら、
それを補って余りある愛嬌があったのだと思います。
なんてったって「純ちゃん」ですから。
で、昨今高い支持率を誇っている知事さんや市長さんも、
なんだかんだいって「愛嬌」の部分で支持されてるところは大きい気がします。
県知事時代に宮崎のセールスマンを名乗ってた東国原さんとか、
まさにそうですよね。
残念なことに日本の政治家の支持率は、愛嬌で決まる。
そしてたぶん、
ぼくら一般人も「どれだけ愛嬌があるか」が人間関係を大きく左右する。
特にフリーランスの人間が仕事をとってくる上においては。
♪ オンナは度胸 オトコは愛嬌、なのです。