卓球を見ながら考えた。

東日本大震災のあと、ニュース番組で

被災地に支援物資を送る福原愛選手の姿を見たことがある。

彼女は支援物資の詰められたダンボール箱に自らのサインを書き、

さまざまなメッセージを添え、トラックの荷台に積み込んでいた。

 

その映像を見ながらぼくは、

スポーツ選手による支援の難しさを感じていた。

 

福原選手は、宮城県仙台市の出身だ。

震災の被害には誰よりも心を痛めていたひとりだろう。

しかし一方、彼女には翌年(つまり今年)のオリンピックが控えている。

練習にも国内外の大会にも全力をつくさなければならない。

オリンピックをめざす競技者にとって、いちばん大事な時期だ。

しかも当時は「この非常時にスポーツか」という空気もあったし、

競技を続行することへの迷いを口にする選手も多かった。

また、著名人による支援活動が

売名行為や自己満足に陥ってしまう可能性も多々あったように思う。

 

そして今回、オリンピック中継を観ていて

ひとつのことに気がついた。

 

 

きっと福原選手からの支援物資を受け取った被災者の方々は、

まるでわが子の試合を見守るように、

友達やお姉ちゃんの試合を見守るように、

そして大事ななにかを託すように、

今回の試合を応援したんじゃないだろうか。

少なくとも東京にいるぼくよりは、

ずっとずっと真剣に身を乗り出して応援していたはずだと思う。

 

福原選手からの支援物資に込められたメッセージとは、

被災者への「がんばってください」ではなく、

被災者との「がんばるよ」という約束だったのだ。

 

支援され、応援されるばかりでは、こころが疲れる。

人はたぶん、応援したい生きものなのだ。

 

4年に1度のオリンピック。

4年に1度のお祭り騒ぎ。

いろいろ不満のある人もいるだろうけど、

とてもいいものだと、ぼくは思っている。

 

 

 

 

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